絵画 不朽の名作 印象派編 後半

1. 印象派展

印象派の画家達はしだいに作品を社会に発表し、まらできるだけ売りたいと考えるようになった。それは絵画の新しい様式を確立するためであり、一方では、年を重ねた画家達にとって(多くの画家は30歳代だった)、家族を養う必要があったからでもある。確かに、1869年と1870年には入選暦のある画家全員の投票でサロンの審判員が選ばれ、1870年のサロンでは、印象派の画家のうち、モネとセザンヌを除く全員が少なくとも1点は入選した。しかしパリ・コミューンの後はどんな変革も押さえ込む反動の時期になり、美術の世界も1870年代初めにはまったく沈滞していた。審査員を選ぶ投票権も再びメダル獲得者だけに限られ、クールベの作品は明らかに政治的な理由によって、展示を拒否されたのである。

1855年の万博博覧会の祭にクーベルが「ヘアリスム展」を開催したことや、クールベとマネが1867年のサロン時期に開いた個展にならい、モネはサロンとは別個の展示会を開催することをすでに思いついていた。彼は1873年5月に掲載されたポール・アレクシの記事に触発され、この計画を持ち出し、仲間達の賛同を得ることができた。アナキストだったピサロは、協同組合にする案を提案した。これはポントワーズのパン屋組合に良く似た、複雑で込み入ったものだった。ルノワールは法律を重んじる性格だったが、規則に縛られることを嫌って、この案を退けた。その代わりに、モネやルノワール、シスレー、ドガ、モリゾ、ピサロらを出資者とした会社がつくられることになった。そして彼らは、写真家のナダールが借りていた店で展示会を開くことを決定した。ドガはこのグループが無名の革命的な風景画家の集団とみなされることを避けるために、多くの年長の画家に参加を打診した。ピサロの方はセザンヌを引き入れ、ドガの不興をかった。一方、マネは1873年サロンで《ボン・ボック》が評価され、公に認められるという夢が実現しそうだと感じていたので、参加することを断ったのだった。

展示会は1874年4月15日に開幕した。モネの出品作のひとつ、ル・アーヴルの朝霧の眺めを描いた作品は《印象、日の出》と題されていた。批評家のひとり、カスタニャリーは展示会を次のように要約している。「彼らの努力を一言で表そうとするなら、私たちは印象派という新しい言葉を作り出す必要があるだろう。風景ではなく、風景から生む出される感覚を描いたがゆえに、彼らは印象派なのである。」もっとも、他のほとんどの批評家は好意的ではなく、展示会を無視するか、画家達が示した成果を嘲笑いするかだった。

展示会を訪れる人は少なく、絵を買う人はさらに稀だった。要するに、財政面の成功はなかった。会社は破産するしかなく、借金を返済するはずだった売り立ては失敗に終わった。仲間のうち、本人にも家族にも個人的な収入のない画家は一文なしも同然で、モネとピサロが特に大変だったが、絵具やカンヴァスさえ買えない事もあった。

それでも、彼らは政策を続けた。モネは川辺や野原などで、移ろえやすくとらえがたい光の効果を追い続け、1877年にはサン=ラザール駅で機関車が吐き出す蒸気を描いた。ルノワールは風景画のほかに、《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの踊り》や《ぶらんこ》などの作品で、パリのあらゆる階層の人々が楽しむ幸福な情景を進んで描き出した。またピサロは《ポントワーズ近くの村、モンフコーの収穫》や《菜園と満開の木》に見られるように、ポイントワーズ周辺の田園の四季の移ろいを描くことに専念した。モリゾは家庭生活の親しみのある場面を自由な様式で描いている。シスレーが描いた《ポール=マルリーの洪水》や《雪のルヴシエンヌ》は、印象主義の風景画の中でも、もっとも繊細で詩的な作例に数えられるだろう。

印象派の画家達は展示会を続けることを重視し、1876年には彼らの作品を扱った唯一の画商であるポール・デュラン=リュエルの画廊で第2回展を開催、さらに1877年の第3回展では、「印象派展」という名称を使うことで反体制的な立場を鮮明にした。グループ展はその後も1879年、1880年、1881年、1882年、1886年と続けられ、これらの展示会は収入の面でもある程度の成功を収めたが、その一方で、画家達の結束は弱まっていった。ピサロとモリゾは出品を続けたが、彼らにも、怒りっぽいドガと他の画家達の環形が長続きしないことは分かった。モネやルノワール、シスレーは、1879年以降は1回しか参加しなかった。印象主義の発展をもたらした一致した心の高まりが過ぎ去ったことは、1886年頃には明らかだったのである。

これらの展示会は、美術の分野において反体制的な姿勢を提起したことに歴史的な重要性があるだろう。しかし現在から見ても、展示会が、参加した画家達に役立つものだったかどうかは判断しがたい。多くの批評家はすでにカフェ・ゲルボワの夕べに画家達とともに集まり、変革について議論を闘わせており、印象派の画家と個人的な進行のある者は少なくなかった。こうした批評家は展示会に対して好意的だった。エドモン・デュランティもそのうちのひとりで、彼が第2回展の折に著した『新しき絵画』は、印象主義に捧げられた最初の著作となった。またジョルジュ・リヴィエールは第3回展に際して、雑誌『印象主義』を刊行している。このほかにも、レアリスム文学の巨匠エミール・ゾラは美術批評家でもあり、少年時代からセザンヌの親しい友人だった。しかし一方で、印象派はもっと多くの敵対する批評家から徹底した攻撃を受け、公衆からも嘲笑を浴びせられた。たとえば、非常に影響力のある批評家だったアルベール・ウォルフは、印象派の画家をペンキを持った猿にたとえた。第2回展の批評より辛辣になり、「5〜6人の狂人・・・・自称画家たち」が「カンヴァスと絵具や絵筆を取り」「気まぐれに色彩を投げつけた」と形容している。エミール・ポルシェロンも容赦なかった。彼は「印象派とは何か」と問いかけ、こう記している。「印象派とは、やみくもにパレットにわが身を捧げ、才能も、絵を描くのに必要な修行もないまま、額縁ほどの価値もない代物を私たちに見せて満足している連中である」

こうした権威ある批判は、当時も現在と同じように、絵画の投資上の価値について決定的な影響力を持っていた。デュラン=リュエルは印象派の画家に共感を示した唯一の画商だった。彼はフランス・プロイセン戦争の間にドービニーを介してモネと出会い、モネを通じて、ピサロやルノワール、ドガやシスレーを知るようになった。デュラン=リュエルは彼らの作品を買い、パリやロンドンで売り出そうと試みた。1875年の売り立ての時には彼らの「専門画商」を任じ、1876年には展示会に自分の画廊を提供している。だが1874年〜80年と1884年にフランスが陥った不況のために財政的に逼迫した際には、画家たちを援助することはできなかった。さらにデュラン=リュエルの競争相手たちは、彼が新しい多くの画家達と独占的なつながりを持っていることをねたみ、ポルシェロンのような批評家の意見を広めた。印象派の絵画は財産としての価値はなく、悪い投資対象だと決めつけられたのだった。

展示会が印象派の画家達にある種の名声を与えたことは間違いない。だからこそ、ピサロは、「我々の展示会は・・・・成功した。批評家達は我々が修行していないと非難し、押しつぶそうとしている」と言ってのけることができたのであろう。また彼らは何人かのコレクターや友人達、すなわちヴィクトール・ショケやギュスターヴ・カイユボット(彼は画家でもある)、ガッシュ医師といった人たちを得ることはできた。それでも、モネとルノワールは自分達が人々から嫌われているのを打ち破るためには、グループを離れ、サロンも含めて別個に作品を発表する場を求め、ジョルジュ・プティなど、他の画廊でも絵を売るしかないと考えるようになった。

現在の私たちには、なぜ印象派がこれほど執拗な敵意に囲まれたのかを理解することは難しい。アルマン・シルヴェストゥルは第1回展の批評の中で、こう強調している。彼らの作品に描かれているのはどれも、「喜びや輝き、春の祭りや金色の宵、花咲くリンゴの木などである。彼らの絵は・・・・楽しげな田園に・・・・あるいは陽気で魅力的な戸外の生活に向かって窓を開いたかのようだ」。彼らの絵画を形づくっているのは、私たちには馴染みのものにほかならない。確かに、印象派の技法と主題は新しかった。彼らの作品と当時の公的な画家の作品とくらべると、印象派の絵は途方もなく明るく、未完成の絵に見えるかもしれない。だがそうであっても、彼らにほとんどは憎しみに近い怒りが向けられ、1894年という後の時期にさえ、ジェロームのような画家が、カイユボットから国家に遺贈された印象派絵画を「汚物」と評しているのは理解しがたいだろう。

疑問を解く手がかりは事実にあると思われる。すなわち、印象派に対する反応は、ナポレオン3世の権威主義的な体制下より、この体制を打ち倒した共和制の時代のほうが悪くなったのである。1870年から1871年にかけては、フランスがプロイセンに敗れ、帝政が倒されただけではなく、パリが荒廃した時代だった。公共の記念物がフランス国民自身の手で壊され、約2万人の反乱者が反動勢力によって殺された。その結果、さまざまな対立が広がり、そこから憎悪と恐怖が生み出される。このような感情は19世紀のフランス社会には珍しくなかったが、とりわけ1870年代には激しかったのである。

変化に対する恐怖が高まり、美術の分野では、1878年の万国博覧会の審査員たちは印象派だけでなく、ドラクロワやミレー、ルソーらも締め出したのだった。このような状況を考えれば、万人に共有された趣味の基準を覆そうと試み、意見を無視し、尊大にもサロンに先立って別の展覧会を平然と開き、1877年以降は仲間のサロン出品を禁じたようなグループが、革命的な輩とみなされたのは当然だっただろう。たとえば、当時の革新的な新聞『ユニヴァーサル・モニター』は好意的な展覧会評の中で、「美術における不屈の者たちと政治における不屈の者たちが手を携えた」と指摘し、こうした連帯こそが期待されていたと付け加えている。なるほど、マネとモネを含む仲間の多くは左翼の側にいたのかもしれない。だが、積極的に変革を目指したのはピサロだけだった。最後の印象派展の頃には、ピサロとドガだけが残った。ピサロは政治的信条ゆえに、ドガは自負心と尊大さゆえに、制度の変革を成し遂げようとしたのである。モネとルノワールは、しだいに反体制的な立場から離れる必要があると感じた。彼らは社会を脅かすつもりはないことを明らかにし、少なくとも社会から認められるようになった。実際、ルノワールは彼もかかわっていた最後の印象派展が開かれるよりも前、1882年にデュラン=リュエルに宛てて、ピサロの政治的理想のために彼とは一緒にやりたくないと述べ、さらに、「自分をぎょっとさせる革命的という汚名を振り払う」ために、サロンに出品するつもりだと語っている。

もっとも、印象派グループの解体についてはもっと重要な理由があるだろう。彼らは1870年代をとおして、印象主義の形成へと至った制作の方法を広げ、発展させてきた。そうするうちに、印象派の画家達は、カスタニャリーが第1回展の批判の中で指摘した事柄を現実のものとして感じるようになったのに違いない。彼はこう記していた。「今日、キャプシーヌ大通りに集まった画家達は、何年もたたない間に二分されるだろう。強者は・・・・“印象”にふさわしい題材もあれば・・・・そうでない・・・・他の題材もあることに・・・・気づくだろう」。彼は、「完璧な素描力」を持った強い画家は「印象主義を捨てることになるだろう」と示唆したのだった。ルノワールは1883年頃に、あたかもこの予言に悩まされるかのように、もはや描くことも、素描することもできないと感じ、印象主義を離れ、色彩よりも線に集中し始める。ピサロも「粗野で雑な制作方法」をどうすべきか、悩むようになった。そしてモネはデュラン=リュエルに宛てて、次のように記している。「だんだんと自分を満足させるのは難しくなり、自分のしていることが前より良くなっているんか、悪くなっているのかさえ分からなくなった。要するに、前は気軽にできたことが、とても困難になっているのだ」

画家達はそれぞれ、この袋小路から独自の道を見つけ出すことになる。当初の仲間のうち、シスレーだけは1899年に死去するまで、純粋に印象主義的な様式で描き続けた。《グランド・ジャット島》や《ポール=マルリーの洪水》などに見られるように、シスレーの初期の風景画や雲の絵は純枠な喜びにあふれ、河や洪水を描いた習作には詩的な静かさが満ちていた。おそらく彼は、こうした特質を超えられないことを知っていたのだろう。晩年には、シスレーは孤独と貧窮のために、しだいに気難しくなるのだった。

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